「凌霜隊140年」〜講演とフォーラムのあらまし。

 凌霜隊は、郡上藩の内で、徳川に味方した部隊である。

会津若松に行き、白虎隊と共に、官軍と戦って敗れた。

その後は、賊軍の汚名の元、郡上に護送され投獄された。

明治3年に、その罪が解かれ、その時から140年が経過した。

今回は45家族中、13家族と連絡が取れ、7家族10名が来られた。

その凌霜隊のご遺族と、青山藩主の14代目が一堂に会した。

それに先立ち、八幡城で慰霊祭が営まれ、講演があった。

講師は、凌霜隊が長期滞在した、野州那須塩原温泉の旅館、和泉屋の田代芳寛氏。

郡上八幡とのつながりは、父・泉様太郎がTVで郡上踊りを紹介がきっかけ。

その後、郡上に来て、凌霜隊と和泉屋のつながりが判明。

凌霜隊は和泉屋に103泊した。横綱柏戸が怪我の当時で63泊・・・。

塩原を去る時、戦略としては、滞在地を焼き払って去るのが常套手段。

所が凌霜隊は、焼かずに、後日、組み立てられるように解体した。

お寺(妙雲寺)は周囲に畳を積んで燃やし、疑似火災で焼かなかった。

隊員は紳士であったらしい。

これは、儒教を熱心に学んだかららしい。詩人も多いと言う。

かなり裕福の様でもあったようだ。

但し、滞在3ヶ月、103泊の宿泊代は定かでないと言う。

小説では和泉屋には綺麗な娘がいて、朝比奈茂吉に惚れたとある。

太郎兵衛は拷問の末、ビッコになっているが、何れもフィクションだと言う。

私は凌霜隊塩原出張所・所長の積りで、研究していると。

講演の後、フォーラムに入る。

コーディネーターは地元史家 高橋教雄氏

パネラーはご遺族の方〜10名、青山家14代目ご夫妻、梅窓院住職と広報副部長

     会津若松し教育長、和泉屋旅館代表の16名。会場から白石博男氏。

以下、順次ご発言の要旨をまとめてみました。

 

青山家14代後見人・青山幸文氏

 11代目の時に起きた事で、真相はつかみきっていない。

 立場上、どうゆう責任があるのであろうか?と言う心境ですと発言。

青山家菩提寺(東京都港区)・梅窓院住職・中島真成氏

 檀家に子孫の人が多くいられる。今迄あまり知らなかった。

梅窓院広報部副部長・川添崇祐氏

 中学生がお寺に多く来る。この歴史をきちんと教えたい。

続いてご子孫

朝比奈隆氏〜朝比奈藤兵衛の曾孫〜茂吉の弟の孫。

 茂吉の妹の“協”に「お見は隊長の子孫だからしっかりせよ」と言われた記憶あり。

 協は90歳以上まで長生きした。

 最初は反感を持っていたが、今は名誉も回復され、それは消えた。

朝比奈志浩氏〜隆の子供

 東京から名古屋に勤務して、郡上八幡を知った。

 その後、仙台勤務となり、会津若松を知った。

凌霜隊は藩の内命であり、藤兵衛の独断説を指示したい。

重要な課題であり、今後も真相を究明してゆきたい。

中岡一男氏

 郡上高校の出身で、遺族としては一番遅くまで郡上に残った。

 先祖を誇りに思っているし、子孫に伝えて行きたい。

山脇 捨さん

 「鶴ケ城を落とすな」の本で、凌霜隊を知った。

 金太郎は16歳で戦死したが、時代の礎になったと思っている。

 山脇鍬橘は郡上で辛酸をなめ、後に東京に出て巡査をした。

小坂裕子さん〜捨の娘

 金太郎の霊を弔いに来た思いです。

桑原昭夫氏〜鑑次郎(しょうじろう・23歳)から4代目に当たる。

 一家臣(兵士)の身で、単純に参加したモノと思う。

 23歳の若さで隠居させられた事は辛かったろうと思う。

 今日、慰霊祭で篤い思いを知らされ、鑑次郎は心から感謝していると思う。

桑原忠良氏〜昭夫と従兄弟

 凌霜隊は藩の生き延びる策の、二股膏薬論を信じていた。

 鑑次郎には、家の大事な刀を持たせているから、家ごと応援をしていたと思う。

 祖父は軍人で朝鮮に渡り、戦後日本に戻った。

 祖父が系図を持っていて、その解説を受けた。

 八幡でいろいろと話を聞いて、感銘を受け、有難いと感謝している。

岡本冏一氏(臨済宗の僧侶)〜岡本文造は曽祖父の兄。

 20年前に、家の整理中に古文書が出てきて、これに係わり始めた。

 藩主、家老、家臣、それぞれの立位置で判断して参加したものと思う。

 下級武士ではあったが、儒教の影響を強く受けている。

 文造は詩人で漢詩が出来た人。これからも多くを調べたい。

 先祖が何処に行ってしまったのか、不明な点が多い。

 消息を知りたいし、発掘をお願いしたい。

中瀬鐘太郎氏

 東京本所に住んでいて、関東大震災、空襲とで、古いものは失っている。

 隊士と同じ名前です。仏壇の位牌を梅窓院に調べてもらい鐘太郎と解った。

 一か月前にこれが解り、名誉回復の今、何かの因縁と思っている。

 家紋は切らす事無く、つないできた。

菊池 晋氏〜隊士の中には菊池性はないが、山田熊之助の孫に当たる。

 現在80歳で、孫の立場は、この中で唯一である。

 昭和59年会津に凌霜隊の碑が立ち、その除幕に出席したのが最初の縁。

 八幡の青年(天野)が、東京の父の会社に就職してきた。

 父が書いた「凌霜隊異聞」を天野青年に渡した。それが私の所に戻ってきた。

 父は最後まで郡上に住み61歳で亡くなった。

 父は郡上で“凌霜“の狼煙をあげた人です。

 大好きな町です。有難うございました。

星 憲隆・会津若松教育長

 会津飯盛山に凌霜隊の慰霊碑があるが、他の碑は断っている。

 民主党の渡部恒三氏も、凌霜隊に足を向けては寝られないと言う。

 湯川村に「耐雪凌霜」の碑がある。多くの影響を与えている。

 「道は一筋なり」この精神は、会津武士の真直ぐな精神と同一。

 地域、歴史プライドのアンケートには、1番〜郡上八幡、2番〜会津若松と出ている。

田代芳寛氏〜和泉屋代表

 凌霜精神を残す為にライブラリーの充実。

 間違った情報が氾濫する事が残念である。

 凌霜隊那須塩原出張所として、これからも正しい情報を発信したい。

白石博男氏〜白鳥町の歴史家

 朝比奈藤兵衛の独断説について、

 国元は官軍の対応で余裕のない時期であったし、相談する事が時間的に無理だった。

 藩の内命である事は間違いないが、凌霜隊立ち上げは、藤兵衛の独断説だと推測する。

高橋教雄氏〜コーディネーター・郷土史家

 まだまだ不明な点が多い。真相究明を続けなければならない。

 凌霜精神を、これからの教育に反映させて行きたい。