不整脈・始末記 | ||||
6月11日 不整脈退治入院の為、我が家を9時少し前に出発し、高速に乗る。付き添いは女房と娘の美夏。 美夏がナビの代わりをしてくれて、10時少し過ぎに岐大病院に到着。 ここは、数年前に出来た新しいもので、1階受付のあるところ等は、ホテルのロビーを思わせる。 手続き箇所に多くの案内する人がいる。まごついていると、寄ってきて親切に教えてくれる。 後で聞いたが、この人達はボランテアだと言う。田舎では見られない光景である。 ボランテアといえば、先月、フーテンの寅さんの故郷・柴又の帝釈天でも、グリーンのジャンパーを着た人がいて、 お客さんを連れて、境内を説明していた。 最初は有料かと思い、躊躇していたら、ボランテアとの事。女房と二人、後で「しまったなー」 ボランテアの人達の手を借りないと、スムーズに手続きが出来ない位、広く大きな病院なのだ。 昔は病院に来ただけで、治った気分になったけれど、この複雑さには、ストレスと言う菌が増えそうになる。 ましてや此処に来る人達は、俺を含め、年寄りで判断力は鈍くなり、その上に弱りきった状態でたどり着くのである。 この受付を通過するまでに、病気がひどくなりそうだ。 入院の経験などほとんどない。30数年前に盲腸炎で入ったくらいであるから、始めての経験と言ってよい。 ましてや自覚症状がゼロに近い状態で入るのだから、何とも変な気分である。 いろいろな手続き上の関門を経て、5階南側の見晴らしの良い4人部屋の窓際に落ち着いた。 はるか前方に金華山が見え、周りは緑も多く、良い環境である。 27年前、親父が、同じ岐大病院に入り、肺癌で亡くなったのを思い出した。 当時は市内司町に病院があり、駐車場がなく、看護に来ても長くいられなかった。 病室も少なかったせいか、なかなか入院する事が難しい時代であった。 親父が歿したら、解剖をする事を条件に、入院をさせてもらった経緯も思い出した。 部屋に落ち着いたら早速、美しい看護婦さん問診に来た。名は城弟さんと言う。 専用のパジャマに着替えてから、採血し、心電図測定器を取り付けられた。 栄養士さんも来て、いろいろと聞き、身長、体重を確認して行った。 昼食時に食堂に行き、名前を告げると、もう、俺専用のメニューで作られていた。 少量、小カロリー、薄塩味。病気になりそうな献立である。 主治医の久保田先生が部屋に来て、郡上市民病院で聞いた時と同じ病気の説明をされた。 正式病名は「心室頻拍」と言う。 不整脈を発生させる箇所が、心臓の中の右心室に原因があれば、成功率は90%、左心室の場合は50%だという。 賭だ!右にあることを祈るしかない。 発生原因は定かでないが、俺の場合は、ストレス?オーバーワーク?暴飲暴食でないか?と思うだけで詳細は不明。 ソフトボールなど、激しい運動をしていても、何の自覚も症状もない。 むしろ静かにしている時に、心臓の不規則鼓動が、胸と後頭部に響いてくるのだ。 これとて、非常に不快だということはない。あえて自覚症状と言えばこの程度なのである。 午後1時から心電図、心エコー、レントゲンと立て続けに検査を受けた。 終わって看護婦さんから、明日の手術についての具体的な説明を受ける。 手術名はカテーテルアブレーションと言って、心臓に管を通して、悪い箇所を捜して、焼き殺すものらしい。 あまり詳しく聞くと、緊張がよけいに高まり、不安が増幅する。出来れば聞きたくない。でも一応は聞いた。 痛い、痒いは我慢が出来そうだが、長時間、拘束され身動きできない状態が、精神的に耐えられるかが心配だ。 昔、閉所恐怖症の経験があり、その延長のような感じがして心配だ。 看護婦さんが来た。右足太ももの付け根に管を通す為、そこの除毛するという。毛を剃るのだ。 横になり、パンツを下げ、看護婦さんが事務的にシェーバーで、手際よく刈り取ってゆく。 最初にパンツを下げる時に、勇気がいるが、作業が始まってしまえば治療の一環に思えてくるから不思議だ。 やっているのは若い美人看護婦サンなのに・・・・。 今日の準備が一応終わった3時頃、女房と娘は帰っていった。 パソコンを持ち込んだが、入院案内に持ち込み禁止がうたってあり、娘が持ち帰った。 この先、三日間パソコンから離れるが、メール、ネット、ブログ等、三度の食事並に生活に入り込んでいた モノから隔離され、禁断症状が出ないかと心配だ。 此処まで書いて5時近くになり、薬剤師の先生が来られた。 投薬について詳しく説明を受けた。 全てが専門分野に分かれて、事細かに対応してくる事に感心する。 だが一つだけ不満があるとすれば、それは先に書いた、パソコン使用禁止だ。 個室なら使えるのだろうか? 又しても、昔の親父の時のことが浮かんだ。 当時の連絡の手段は、病室の廊下に赤電話が一つだけ置いてあった。 10円硬貨を握り締め、電話をしたものだ。赤電話だから、こちらから連絡するだけである。 あれから30年も過ぎていない、携帯電話全盛の今、隔世の感がある。 タダではないが、TVも一人に一台付いている。 とにかくパソコンが使えないのであるから、この際、新聞もTVもラジオもメデアは全て シャットアウトにしてみようと決意した。 一人っきりで静かな時間の持てる機会など、そうあるものではない。 ブログだけは手書きで、じっくりと書ける。後はひたすら、ぼんやりとしてみよう・・・と。 いやいや、こう思えるのも手術前だけかもしれない。 手術後は痛くて、痒くて、それどころでないかも知れないが。 本は読んでみようと、昔、買っただけで読んでいないのを持って来たが、此処に来て、 しち面倒臭いモノは止めて、ゴルフ週刊誌を買ってきてもらった。 気晴らしを兼ね、退院後に備えてのメンタルトレーニングをねらった。 夕方5時15分。此処まで一気に書いて、一休みしようと横になる。 ワールドカップの件で、鷲見院長、三島、井俣両君に電話する。 横になり、ゴルフ週刊誌を見るも、明日の手術の事が頭から離れず、活字を追っているに過ぎない。 6時半ころ、食堂の空いたのを確認して食事へ。 炊事のおばちゃんが、味噌汁をお椀一杯に入れてくれて、持って行こうとしたら、「アッ一寸まってぇ」と叫ぶ。 味噌汁を俺から取り上げて、半分に減らしてしまう。 「どうして?」そばにあった俺専用のメニューに「N」の文字があった。 「N」は減塩で半分にする記号だと、おばちゃんは言う。モノは全て少ないと美味く感じるものだ。 半分の味噌汁で、お代わりも出来ないとは、何とも情けない食卓だ。 これでは、間違いなく病人になる! その後、2回ほど看護婦さんが様子を見に来てくれた。 婦長さんも挨拶に来てくれた。若くて大柄で美人である。 婦長さんと言えば、TVなどで見る限り、年配で意地悪なイメージが相場だが、此処は全然違うのだ。 夕方、城弟さんに代わって、夜勤だと言って川尻さんと言う看護婦さんが挨拶に来た。 川尻と言う姓は何処にでもあるのだろうか?高鷲の鷲見には腐るほどあるが・・・・。 今来た娘(こ)は鷲見のイメージではない。垢抜けしている。今夜はよろしく・・・・。 7時頃、少し眠くなってきたが、今寝ると、予約してあるシャワーの時間を寝過ぎてしまうとガマン。 7時半少し前に女房から電話が来た。「シャワーの時間だよ」と。 郡上と岐阜と離れていても、完全に管理されている。「ハイハイ」 看護婦に、体に取り付けてある機械を取り外してもらい、シャワーに行く。 日本人である俺にはシャワーだけでは物足らない。湯船にどっぷり浸かって、始めて風呂に入ったと言える。 そう言えば、昭和の始め頃まで、皇室では湯船の風呂はなかったらしい。 数年前、栃木県の日光にある、大正天皇の静養地・田母沢御用邸を見学する機会があった。 現在の敷地は12,000坪に106室(1,350坪)があり、壮大なものだ。 その中の風呂が印象に残っている。係員の説明を受け、ビックリした。 湯殿は板の間だけで、湯船が無いのだ。風呂場の外に、大きなタンクが見られたが、そこにお湯を運び貯めておき、 そこから又、侍従が中に入れて、天皇にかけて、お体を洗うのだと聞いた。 皇室の風呂の入り方は、全てこのようだと聞いたが、信じられなかった。 今夜の俺も湯船はない。付き人もなく、一人で湯をかけたが、皇室並みの湯浴みであった。 部屋に戻り、看護婦さんを呼んで、機械を体に取り付けてもらい横になる。 ゴルフ誌に目を通す。だいぶ落ち着いたのか、意味が解るようになった。 此処は4人部屋で、他の三人は部屋で食事を取る。重症の人達なのだ。 その三人が仲良く話をしている、一人浮いていてはまずいと思い、カーテンを開けて仲間に加わった。 隣のベットの野口氏は80歳に近い人で、何と俺と同郷の牛道だと言う。 最初のこの部屋に入ったときから、流暢な郡上弁が聞こえたので、気にはなっていたが、聞いてみれば、 野口工業の親戚で、娘は白鳥病院に勤めていると言う。 実に良く眠る人だ。昼間でも、喋っていたかと思うと、すぐいびきに代わる。 それなのに看護婦に、眠り薬がほしいとねだっている。甘えているのか? よどみない郡上弁で、実に良く喋る。この部屋の主と言う感じの人である。 斜め向かいの国居さんは、年は俺と同じであるが、歩行困難で手の自由もなく、激しい下痢も襲ってくる様だ。 定かな処方箋がない様だ。昔はゴルフもやっていたと言う。頭はしっかりしているだけに苦しいだろうと思う。 向かいの山下さんは糖尿病が元で、様々な合併症を抱えている。視力は.0.02くらいでほとんど見えないと言う。 今は腎臓が悪いらしい。カテーテルの経験者で、いろいろと話してくれる。 カテーテルは治療の時よりも、終わってから5〜6時間固定されて動けないのがつらいと、俺にプレッシャーをかける。 この辺が俺の弱い所で不安が広がる。 昨日も看護婦の城弟さんに話しておいたが、昔、閉所恐怖症の経験があるので、自由の利かない状態は不安定になるので、 その時は安定剤の処方を考えてくださいと頼んだ。 不思議なもので、これだけの事を言ってしまうと、それに対する不安は和らいでくる。 みんなと30分くらいお喋りをして、話題も途切れだしたので、ベッドに戻り、本を広げて10時過ぎに消灯、就寝する。 寝つきが悪いかなと思ったが、いろいろな出来事で疲れたのか、早く寝付いた。 |
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6月12日 夜中の2時半に目が覚めたが、ウツラウツラと4時半まで、外は明るくなっている。 更にうとうとして5時半にトイレに。それから7時過ぎまで本を読む。 他の3人は、夜が眠れないと、さかんに話していたが、その割には、交互にいびきが聞こえてきた。 「ここに来れば、寝るのが仕事だ」と言っている。 ここを出る時は、白木の箱に入って出るのではないかと、冗談を言い合っている。3人とも長期戦のようだ。 本に集中しているときは動悸を感じないが、何もせず、静かに横になっていると、胸と後頭部に動悸を強く感じる。 別に不規則でもないが、動悸は強い。 8時から朝食だが、空くのを待って、8時半頃行ったら、ほとんど誰もおらず、俺一人の状態となった。 皆は早く目が覚めて、朝食を待ちかねている感じだ。 今朝も味噌汁は1/2と言われ「ハイハイ」。記念に食卓をカメラに収めた。 誰もいない食堂で一人ゆっくりと、“病人健康食”をありがたくいただいた。 午後から始まる手術はかなり苦痛のようだ。 昔の武士が、切腹を前にした時の心境に近い・・・・今の俺は? 切腹は一瞬だが、手術の苦痛はほぼ一日かかると言うから、異質かもしれないが・・・・・。 切腹は一巻の終わりだが、手術は、この先、より良く生きる為のものだと思って、耐えるしかない。 12時半、若い看護婦さんが、尿道へ管を取り付けに来た。 「初めてですか?」と聞く。「ハイ処女です」「少し痛いですよ」・・・緊張!。 パンツを下げて、恐怖で縮こまっている息子を、事務的につまみ上げ、管を差し込む。 数回繰り返したが、付け根あたりから中に入らない、痛いだけだ。 「駄目だわ、細いのに代えてみる、少し待ってて!」と取替えに出てゆく。 俺の前は開けたまま・・・・。なかなか帰ってこない。 2回目、今度は入ってゆく。痛いッ、気持ち悪いっ、うんー・・・・。 本来なら一回の苦痛が、2回、いや数回のおまけ付である。下手くそ! 前途に暗雲を感じる。 続いて、点滴の取り付けに、別の別嬪看護婦が来る。 自慢じゃないが、点滴をつけるのも始めてである、処女なのだ。 最初は左腕に刺したが、上手くゆかず、右手に変えても良いですかと簡単に聞く。 駄目だと言ったら、どうしただろう?相手は凶器を持っている、逆らってはいけない。 どうぞと右手を出す。ブスリ!これも2回の苦痛だ。「下手くそっ!」と声にはよう出さない。 続いて白いストッキングを履けと言う。 これは足を締め付けるもので、エコノミー症候群を防ぐものらしい。 一人ではきつくて履けない。看護婦に履かせて貰ったが、この締め付けも気分のよいものではない。 手術に向かうストレッチャーが来る前。 毛も剃った 苦痛の旅へ 身嗜み 毛を剃って 二泊三日の 地獄旅 心の臓 二泊三日で 治るのか 手術前 悟りの境地 程遠く 手術前 弱気の虫め 目を覚まし 力抜け ゴルフも同じ 手術前 いよいよストレッチャーが来た。 皆に見送られて手術室へ出発だ。「行って来まーす!」 「行きまーす」では駄目なのだ。「来まーす」が入らないと、片道切符では。 手術室の前で、手術チームと引継ぎ作業が行われる。家族の見送りも此処まで。 中に入ってドアーの締まる音を聞いた時は、葬儀場の扉が連想された。 もう観念するしかない。神様、仏様、先生さま・・・・・。 手術台に向かい、執刀医に目礼し、自力で登った。 裸にされ、様々なものを体に取り付けられた。総て計測器のようだ。 不安と緊張感はMaxである。 体をある程度固定して、局所麻酔の注射が始まった。 右足太ももの付け根に、何回も打ち込む。 しばらくして、「少し痛いですよ」と言って、管が差し込まれる。 痛いことも痛いが、何とも気持ちの悪い鈍痛が数回繰り返された。 管の挿入されている感じは、入り口は強く感じるが、中のほうは全然感じない。 「造影剤を入れます、胸から尻にかけて熱くなりますが、心配要りません」と言う。 なるほど“カー”と熱くなってくる。がしばらくして熱さは消えた。 挿入した管のオペレーテングは久保田主治医のようだ。そして別の箇所でモニター画面を見ながら、測定計算をしながら、 悪い所の位置を、主治医と打ち合わせながら進める先生との共同作業の様だ。他にも何人かのスタッフがいる。 「ハイ、そこ、もう少し上、左・・・・」等と言う感じの言葉が断片的に聞こえてくる。 手術が始まって、1時間ぐらい経ったであろうか、ようやく自分が落ち着いてきた。 手術室全体に、ポー、ポー、ポー、ポポッ、ポー・・・等と言う音が響いている。 自分が落ち着いてきて、初めて耳に入るようになってきた。 その音と、自分の心臓の鼓動と合わせたらぴったり合う。俺の心臓音だ。 聞いていると、かなり乱れる部分がある。不規則でもある。 不規則音が出た時の場所を探し出し、そこを焼き殺す作戦のようだ。 探すときは、痛くも痒くもないが、焼くときが苦痛だ。 心臓に槍でも突き刺されたような感じで、焼く温度が上がってくるに従い、痛みも強くなってくる。 かなりの箇所を焼いている様に感じた。 これが終わると、上手くいったかどうかのテストをする。 心臓を機械的に早く動かして、不整脈を誘発させるらしい。 これで不整脈が出なければ、手術は成功となるらしいが、1回目は残念ながら駄目であった。 これは、自分でも、音を聞いていて、不規則音は認識出来た。 「残っているので、もう一度やります」と言って、何故か又、麻酔注射から始まった。 同じくらい時間がかかるものと観念したが、2回目は、先ほどの半分くらいの時間で局所がつかめたらしい。 焼き殺し作業は同じくらいであった。続いて誘発作業が始まる。 自分で音が解かるので、祈る思いで、その音に集中した。・・・・・・ない! 先生が耳元で「終わりました、成功です!」と。・・・・・涙が一筋、耳の方に流れた。 これで治る、と言ううれしさと、何よりもこの苦痛から開放されると言う安堵感で。 そう言えば、今まで、ズーと感じていた、胸と後頭部に現れる不規則な動悸は消えている。 今まで自覚症状はないと自分で言ってきたが、かなり強く感じる、この不規則動悸が、自覚症状であったのだ。 激しい運動をしても、何の不都合もなかったので、自覚症状はないと言いきっていたが、間違いであった。 全ての計測器を外し、傷口をふさぐために、強力なバンドを腰部に巻き付け、更に、ガムテープ状のモノで締め付ける。 最後に越中ふんどしを締めてもらって、全てが終わった。 越中ふんどしなるモノも、生まれて初めてしめた。軽く隠している程度のモノであり、落ち着くモノではない。 でも今は、これが一番、何かと便利らしい。 ストレッチャーで部屋に帰還したのは、4時頃であっただろうか。4時間余の手術であった。 家族共々一安心。先生が、女房と二人の子供に、経過と結果を別室で説明したようだ。 切り口の止血の為、バンドで全体に強く締め付けられている。 右足はこれから5時間ほど動かすな、と言う。 これが、つらい時間帯だと、同室の経験者二人は言う。手術以上につらいと。 確かにつらい、寝返りもままならない。しかし俺は、手術台上の時間帯の方がはるかにつらかった。 手術後2時間、6時に夕食。 ベッドを30度位なら起こしても良いと言うので、その状態で、女房に食べさせてもらった。 汁やお茶はストローである。大河には見せられない姿である。笑われそうだ。 幹太は手術の結果を聞いて帰ったが、すみ子と美夏はしばらくいて7時頃かえって行った。 予定だと、9時頃まで、動かざる事、山の如しと観念し、少し眠る事にした。 麻酔が醒めて痛むときは飲むようにと、あらかじめ薬はもらってあったが、傷口は幸い傷まない。 まだ麻酔が効いているのだろうか? そう言えば、この二十日程、酒を飲んでいないから、麻酔は良く効く筈だと、勝手に慰めている。 7時半頃、先生が来る。「少し早いが、帯を取ろう」と解いてくれた。 但し、あと一時間は歩くなという。強力な便秘が治ったようなスッキリ感だ。 ひたすら眠る事に勤めた。 8時半頃、看護婦が来て、尿管を抜いてくれた。抜くときも痛い! 管に血が付いているので、放尿の時、注意してくださいと言う。トイレに行く時は、看護婦を呼んでくれと言う。 一緒にトイレに行き、出るところを観察するのかと思ったが、違った。歩く所をチェックするらしい。 10時頃、看護婦を呼んでトイレに行った。看護婦は入って来ず、外で待っていた。 出始めた、「痛いッ!」猛烈に痛い!出るものが引っ込んでしまう。・・・・ガマンして出した。 血でも混じっていないかと、心配したが、それはなかった。 ここに入院してきて、最も激しい痛みである。 看護婦に訴えたら「その内に治ります」と軽くいなされ、取り合ってくれない。薄情者! 美人は情が薄いと聞くが、この事かと、少し睨んでやったら、「ニコッ」と笑いさった。 心得てけつかる!憎らしい。 手術後はさすがに、本もブログも手に付かなかった。 ひたすら眠ろうとするが、まだ興奮状態から覚めやらぬのか、うとうとするだけだ。 |
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6月13日 昨日同様、何故か2時半に目が覚め、後は6時半までうつらうつら。 トイレに恐る恐る行く。最初に出る時が恐怖だ、来る来る来る・・・・痛いッ! 昨日から何も変わっていねぇじゃねかっ!嘘つき看護婦めッ! 8時に朝食を済ますと、見てたかのように、女房から電話。食後の薬を飲め!と あんまりこまごまとウルセエから子供に嫌われるんだ。 少し体も楽になったので、稿を書き綴っている。 昨日からそばにいて全然気が付かなかったけれど、TVの下の棚の奥にパソコンのキーボードがあるではないか。 もしかして使えるのではないと調べてみた。 残念ながら一般用にはダメである。 食事メニューの注文と、自分が今受けている治療について、様々な事がこれで見られるらしい。 此処まで設備してあるのなら、有料で充分だから外のNETに繋いでほしいものと切に願った。 この端末を使って入院している人は、おそらく1%もいないのではないかと思った。 宝の持ち腐れである。 手術後の駄句。 苦の旅も 越中締めて 無事帰還 この苦痛 抜ければ芝生が 待っている 手術あと 動かざる事 山の如し 手術あと 動かざる事 地獄の如し これしきの 苦痛に泣いて ナマ言うな! 病院と ソープランドは 素っ裸 こなた地獄で かなた天国 この始末記を10時半まで書いたら、女房と美夏が現れた。 隣の人達とも、一緒に話をした。 他の3人は、俺のことを、あれだけの手術をしておいて、はや今日帰れるのか?と疑いやら、羨望のマナコ。 「俺んたが帰る時は、小さな白い箱に入って帰るんやろかえー」と同郷の郡上弁が心に残った。 自分は恵まれていると感謝し、三人の早期完治を祈った。 12時半、久保田先生が来られて、説明をするので来なさいと別室へ。 モニターTVに写る自分の心臓を前に、説明を聞いた。 日頃は何も思わないでいたが、心臓は寸暇も休まず、懸命に動いている事に、あらためて感動した。 これからは大事にしないといけないと、つくづく思った。 僅かだが動脈硬化現象の見られる所がある、と指摘を受けた。それ以外は、全く正常ですと。 深々と頭を下げ、部屋を出てきた。 美夏の運転で帰り、二泊三日のドラマチックな小旅行は終わった。 飛騨トンネルを掘り抜いた人間の技術も、凄いと思ったが、ミクロに近い世界で、ほとんど瞬時に、 人間の体を治してゆく技術も、“凄い”モノだと感動、敬服した。 これだけ進歩した中でも、まだ治しきれない人達のいることも、この目で視てきた。 長い人生の中で、貴重な三日間であった。 関わって頂いた皆様と神様、ありがとうございました。 |
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